常陸太田市長幡部神社 アクセスカウンター
長幡部(ながはたべ)神社は、常陸太田市幡町高台にあります。車で移動、JR水郡線常陸太田駅前変形4差 路を北東方向に進み信号3個目(約850m)右折常陸太田市役所前経由(信号1個)里川に架かる機初橋(はたそめばし )を渡る(約1.2km)左折(約500m)右折小さい橋を渡り坂を上る(約750m)長幡部神社駐車場ここまで3.3kmです。 長幡部神社は平安時代に社格制度の延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう) に記載された式内社で2861社の内常陸の国28社中久慈7座の1つで式内小社である。明治維新後近代社格制度 郷社(ごうしゃ)に格付される第二次世界大戦後(GHQの神道指令 (しんとうしれい)で社格制度は廃止)昭和27年に宗教法人となり現在に至る。
御祭神 綺日女命(かむはたひめのみこと)多弖命(たてのみこと)
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1 長幡部神社社名標
2 長幡部神社鳥居
3 長幡部神社鳥居
4 鳥居より拝殿を望む
5 長幡部神社拝殿
6 長幡部神社本殿
7 長幡部神社御由緒
9 碑に刻まれた和歌
10 資料館
11 機織機と神輿
12 横穴古墳
13 古墳立て札
14 古墳内部8畳位
15 陰刻壁画横穴
常陸風土記参照 天照皇大神の孫で皇孫瓊瓊杵尊(すめみまににぎのみこと)天孫降臨の時、 御服を織られるため、機具を携え お供えした神に綺日女命(かむはたひめのみこと)あり筑紫の日向の二神の峰(高天原、高千穂) より三野国(現美濃市) 引津根の丘に至られた。後に、崇人天皇(すじんてんのう)の時代になり、其の子孫が長幡部 の祖である多弖命(たてのみこと)が三野国 (美濃)より常陸の国に移り、この地に機殿を建て長幡を織られた。長幡とは(きぬ)の名に て之を織作るものを長幡部と言い、以前の倭文織(しどり)静織(しどり) )より美しく丈夫であった。この織物は、そのまま着物となって裁ち縫う必要がなく、之を 内幡(うつはた)と言う、ある人が謂うには(あし)(ぎぬ) を織る時は、人目につき易いので、機屋を閉じて(くら)くして織ったので、 烏織(うつはた)(内幡)と名付けられた、その布は強兵(つはもの)の 剣も裁ち斬る事が出来ない丈夫な織物であった。現在の神社の北西五町(500~600メートル)ぐらいの処に旧宮跡があり、 神輿(みこし)出社の際は必ず安置する。江戸時代(1600年)以降小幡足明神と云い後に駒形明神と尊称。 康平年間(1060年)頃、源頼義(みなもとのよりよし)が、奥州征伐の際、当社に戎旗 (えびすばた)一旗奉献し戦勝祈願をして凱旋に及んだ社地に鹿島、三島、明神、若宮八幡を祀り四所明神 とした、四所明神が盛大となり、遂に社号を失い鹿島明神とのみ(とな)えていたが、 延享(えんきょう)年間(1744~1748年)に故老(昔の事や故実に通じていた老人)の 口碑(こうひ)(言い伝え)により旧社号長幡部神社になった。

末社(まっしゃ)境内社(けいだいしゃ))に 足尾神社(あしおじんじゃ)七福神神社(しちふくじんじんじゃ)愛宕神社(あたごじんじゃ)鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)羽黒神社(はぐろじんじゃ)天満宮神社(てんまんぐうじんじゃ)

阿夫利神社(あふりじんじゃ)熊野神社(くまのじんじゃ)雷神社(いかずちじんじゃ)浅間神社(せんげんじんじゃ)稲荷神社(いなりじんじゃ)が祀ってあります。
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