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創建は室町時代初期の応永6年(1400)頃佐竹藩主12代の義人(義仁)公(上杉憲定の次男で婿養子)が 鶴岡八幡宮より分霊を太田城(舞鶴城)に勧請 (かんじょう) (分霊を他の地へ移すこと) して太田城内に祀り守護神としたのが始まりで、佐竹氏の祈願所となった、佐竹氏(初代の当主は源昌義で姓を佐竹に改め) は源氏の血を引くため八幡信仰に深く歴代当主が崇敬された。 其の後関ヶ原の戦いで、常陸の大名第19代当主の佐竹義宣は石田光成と親交が深く西軍の上杉景勝と連携、会津征伐に 向かう徳川軍を挟撃する密約をしていたといわれ西軍(光成)に加担しようとしたが、隠居していた父義重、弟の蘆名 (あしな) 盛重、重臣の筆頭で佐竹義久が東軍(家康)につくよう説得、義宣が西軍(光成) に加担しないよう強硬に反対したため中立をとり徳川家康方に加担しなかったため徳川家康より1602年常陸一国と54万石 は没収され出羽(秋田)久保田へ20万石に減石、移封されたため庇護(守る)者がなく一時衰退したが 慶長14年(1609)駿府城(静岡)にいた初代水戸藩主徳川頼房公(威公)が7歳の時重病に罹りこの若宮八幡宮に祈願し 日若くして快癒したことから歴代藩主に崇敬され圭田(土地)を寄進された。 元禄5年(1692)水戸2代藩主光圀公が太田一郷の鎮守とされ宝永5年(1708)水戸藩附家老中山備前守に命じ 太田稲荷神社とも現在の地に奉造営し崇敬された。 太田稲荷神社の創祀は遠く太田城が佐竹氏になる前に藤原通延(太田大夫通延)が始めてこの地に居城を構えた頃に 遡ると思はれる。元禄5年(1692)光圀公桜花を鑑賞のため来城、古来より聞きし稲荷の御神体を拝し感激、 幣札 (へいさつ) (水戸藩の藩札を供えたという事ではないか)を致す。安永5年(1776) 京師 (けいし) (平城京、平安京の後桃園天皇 (ごももぞのてんのう) に上り、 神階宣下 (しんかいせんげ) (神号と階級)を蒙る。 本殿は八幡宮(京都の石清水八幡宮)の分霊、応神天皇誉田別尊 (ほんだわけのみこと) と 若宮八幡宮(鶴岡八幡宮)の分霊、仁徳天皇(大鷦鷯尊 おおささぎのみこと) の分霊二棟が並んで 祀られています。佐竹氏が移封された秋田の大館八幡神社でも同じ形式で祀られています。
鎌倉鶴岡八幡宮より分霊を勧請の折り、鶴子という者(女性)が供奉 (きょうほう) (一緒にお供) して来た、数世祭祀を司った(数世と祭祀はわけて読む)、何年か祭祀を行ったと解釈)鶴子舞を奉納した、近年この 舞の奉納が復活五年に一度の神幸祭には、鎌倉の鶴岡八幡宮で氏子の子女が習いに行って披露している平成22年 5月16に浦安の舞、豊栄の舞、八乙女の舞が奉納され、平成27年5月10日春季例大祭に鶴子舞が奉納された。
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