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場所は常陸太田市東連地(とうれんじ)町200番地青蓮寺 左下のGoogle Map地図参照
東連地の地(青蓮寺)は天武天皇(てんむてんのう)(第40代)673~686が大海人皇人(おおあまのみこ) の時代天皇に即位する前670~672の3年間脚を止められたところで、朝廷のある明日香へ帰還後その殿上に仏像と上宮太子を安置した、今も安置した 場所に太子堂という地名が残っています。その後500余年を経て、後鳥羽院(ごとばいん)第二の宮周観 (しゅうかん)上人がこの地に下向され、王跡山極楽院瑞巌寺(おうせきさんごくらくいんずいがんじ) と号し、天台の法流を伝えた。平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての武将、畠山重忠の第二子重秀は、父重忠が殺された元久2年 1205年自害したとあるが、出家し栂尾明恵(とがのおみょうえ)上人の弟子となり、恵空(えくう)と号し 父(重忠)の墓を訪ね常陸の国に巡って来た時、たまたま当山の太子堂に泊まって、太子の夢を見、そのお告げによって親鸞上人に出会い、弟子となった のである、法名を澄性と賜った。その後法名を性証(しょうしょう)と改め 親鸞に従って、再び当山を訪れた時、太子堂をはじめひどく荒れ果てていたので、健保6年1218年に師弟力を合わせて境内を浄め
堂宇(どうう) を建てて浄土真宗(一向宗)の寺とした。

ここに住むことになった性証は、青蓮の夢を見て、寺号を青蓮寺と改めた、現在の建物は江戸時代のものと思はれる、仏壇のある部屋は、 ※寝殿造りの流れをくむ珍しい 造りとなっている、檀上には、本尊の阿弥陀如来像と性証上人の坐像が安置されている。本堂入り口の上にある、蟇股 (かえるまた)に天皇家の菊の御紋が刻まれている。 近年親鸞上人ゆかりの地を巡って豊後の国(大分県)臼杵藩の農民で 浄土真宗の信者であった川野初衛門が当地へ来たところ足を痛め長期療養していた 国で待っている、姉 都由(つゆ)と妹 登岐(とき)の二人の 姉妹には、このことを知るよしもなかったが、あるとき川野家の菩提寺の住職より所在を知らされ2か月かけて、父を常陸太田市の青蓮寺まで迎えに来て、 無事郷里に連れ帰ったと言う実話の物語が常陸太田市の市報などでとりあげられ、またテレビなどで放送され脚光を浴びた寺である。
文中 ※堂宇とは、堂の建物
   ※寝殿造りとは、平安時代の貴族の建物で、寝殿を中心に左右対称に建物が建っている造り

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山門・本堂


本堂


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青蓮寺に建てられた豊後の国(大分県)二孝女記念碑 二孝女記念碑文面 下の文面クリックで拡大します

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