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平成28年(2016年)西山御殿跡(西山荘)
国指定史跡及び名勝となる
西山荘は常陸太田市新宿町にあり、市街地から国道293号で桃源橋 (とうげんきょう) を渡り2つ目の信号を、左折し直進すると、西山の里桃源、物産店土産販売の大駐車場に付きます。 遊歩道を約200m位歩くと杉の大木があります。すぐに裏門の 檪門 (くぬぎもん) に付きます左側の紅蓮池 (ぐれんいけ) の脇を進み築山 (つきやま) 高台の月見の丘に登り、降りてくると西山荘の庭に付きます茅葺 (かやぶき) 屋根の質素な造りで風雨により屋根の上が飛ばないよう泥を塗り菖蒲を貼り付けているところ は光圀公の素晴らしいアイデアである。また庶民や家来との隔てが無いように部屋の仕切りに敷居を設けなかった事も光圀公の配慮で あった。
(あおい) 御紋入 (ごもんい) 印籠 (いんろう)
写真にマウスポインタを乗せると変わります。
檪門 (くぬぎもん)   裏門
檪の木を柱ににしているところ
からその名がついた

突き上げ御門   表門
昼間は突き上げて門になり夜
は降ろして塀になるところから
その名がついた
西山荘
ここで大日本史の編纂に尽力
この建物は文政2年(1819)に
再建されたものである

西山荘の庭
当時珍しい木々が植樹されて
いるこの敷地内に397種の
薬草を植栽していた
心字の池(白蓮の池)
心の字を裏側から見た形
人の心は裏からも見よ
白蓮を植え白い花を公は愛でた

瑞竜山水戸藩主歴代墓所入口
歴代藩主や夫人がこの 墓所に
埋葬されております
光圀公の先生朱瞬水もこの中に
埋葬されております

西山荘

平成28年(2016)3月西山御殿跡(西山荘)国指定史跡及び名勝となりました

この建物は文政2年(1819)に再建されたものである。
光圀公が亡くなった後、建物は解体されたが享保元年(1716)綱条(つなえだ)公によって再建された 文化14年(1817)火事により焼失し文政2年(1819)8代藩主齊脩(なりのぶ)公 によって再建されたものである。当時の建物は現在より3倍位大きい建物であったらしい。
閑静な場所 茅葺き屋根の建物です。光圀公が隠居する前、元禄3年(1690)に建設、隠居した元禄4年(1691)から亡くなる 元禄13年(1700)の10年間過ごし大日本史の編纂に尽くす。大日本史の編纂は彰考館で館員達が進めていたので検閲(補助的)な 役割を果たしたのではないか
助さん(佐々木 介三郎)は不老庵で番をしていた
櫟門(くぬぎもん)
櫟門(くぬぎもん)で櫟の柱で作られ表門に対して立派である黄門様は家来や
庶民を大事にしたところから裏門でありながらここから家来や庶民は

出入りする
ように作られた。
突き上げ御門
西山荘の突き上げご門昼間は突き上げて門になり
夜は下げて塀になる黄門様のアイデアにより
作成 された実用的な構造物である。
西山荘
庭に当時珍しい植物が植えてあった397種類の薬草が敷地内に植栽されていた
家来や庶民が気ままに入れるよう
敷居を設け
なかった庶民の味方の黄門様であった
クリック 心字の池(白蓮の池)
心の字を裏から見た形となっている、人の心は裏からも見よ
本当の心が見えるようにとの意味で作られたクリック  白蓮を植え
白い花を
黄門様は見るのを楽しんでいたようである

水戸徳川家瑞竜墓所
水戸徳川家累代墓所 二代藩主光圀公が父頼房公の意を汲み、1661年瑞竜山を 水戸家の墓地とし歴代藩主夫妻の墓がある。形式は儒式により () (しゅ)亀趺(きぶ) 亀の胴体に龍の首の台石 の上に建てられている光圀公の傍らに「梅里先生の墓」と称した 寿蔵碑 クリックして下さいがある。
光圀公が書いたものである。東日本大震災により被害がありました。
天竜院
天竜院の庭園東屋があります。中には入れません。
天竜院
天竜院の庭園、東屋と後方に小さい滝が庭園の中を流れております。
夏は涼しい所であるとおもいます
十三代の圀順公は家族で泊まることも あったようです。
天竜院
天竜院
天竜院
天竜院 トタン屋根の質素な作りです。

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